日本の国立公園の山の魅力⑳「南アルプス国立公園と赤石岳あれこれ」

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南アルプス国立公園は東京オリンピック開催の年である1964年(昭和39年)6月1日に知床国立公園とともに  指定された。また、同日には八ヶ岳中信高原国定公園も指定を受けている。
山梨県、長野県、静岡県の3県に跨り、公園面積は35,752haで中部山岳国立公園(174,323ha)の20%程度であるが、甲斐駒・鳳凰山系、白峰山系、赤石山系の3つの山系から構成されていて、日本で2番目に高い北岳をはじめ、3,000m級の高峰は11座、日本百名山にも10座が選ばれている。
この南アルプス国立公園と赤石岳にまつわる話を少しばかりしてみたい。

○特殊東海製紙(東海パルプ)社有林のこと
南アルプス国立公園の区域図をみると、指定区域は鋸岳の北西にある編笠山周辺を北限として、鳳凰三山、白峰三山、塩見岳・荒川三山・赤石岳・聖岳・上河内岳・茶臼岳に連なる尾根をとおり、その南限は光岳となっている。
この区域図を見て違和感を覚えるのは筆者だけであろうか。
白峰三山から南に延びる白峰南嶺の黒河内岳(笹山)以南および大井川流域がそっくり公園域から欠落していることである。
実際、この山域にも2,629mの笊ヶ岳を始めとして2,000m~2,500mの山岳も数多くあるのにどんな理由があったのであろうか。
結論をいうと、くさび状に突出した静岡県の最北端、大井川の最上流部に位置した、東西の最広部約13km、南北約33km(面積は約24,430ha)が特殊東海製紙の社有林であり、南アルプス国立公園の指定地域から外れているためである。
社有林は、最北端には我が国第3位の標高3,190mの間ノ岳が聳え、東側(山梨県境)を農鳥岳・笊ヶ岳(ざるがたけ)をはじめとする白峰山系と、西側(長野県境)を塩見岳・荒川岳をはじめとする赤石山系とに挟まれた急崚な奥地山岳林でそのほぼ中央を大井川が幾多の支流を集め南流している。
同社は国立公園指定に伴い、標高2,600m以上を基準に国立公園
区域とすることに受諾したが、林内には間ノ岳、荒川三山、赤石岳、小赤石岳、塩見岳、農鳥岳、聖岳などが聳え立っていることは驚きである。
グループ会社の特殊東海フォレストは1981年から二軒小屋ロッジ、椹島自然ふれあいセンターを始めとして、社有林内の登山小屋等の営業を行っている。
[出典]環境省ホームページ

○大倉喜八郎の赤石岳登山のこと
赤石岳を語る時、大倉喜八郎の赤石岳登山について触れずにはいられない。
1826年(大正15年)、当時東海紙料取締役会長であった氏は、数え年90歳になった記念に赤石岳登頂を決意した。当時の平均年齢は44.82歳で45歳まで生きれば「寿命でした」と言われた時代のことであるが、登山の動機として「自分の所有地の一番高いところに登りたい」と言ったからとの記述も散見されるが、実際には同社社有林最高点は間ノ岳であり、当時木材伐出事業が行われていた赤石岳への愛着がそうさせたと思われる。
「東海パルプ100年史」からその登山の様子を述べてみると、登山行程は、8月1日に東京駅発し、静岡駅着。ここから自動車8台に分乗し、安倍川沿いに遡上し、支流の中河内川分岐の唯間泊。ここから赤石岳山頂直下まで通し駕篭を使い、大日峠を越えて沼平~椹島~マンノー沢頭の仮小屋泊を経て7日目に頂上直下の大雪渓手前で背負子に移り、見事に赤石岳登頂を果たした。
一行は総勢200名、費用は4万円。現在の金額に直すと1億5千万円に相当するとのことである。これに加えて静岡市内から膨大な物資の運搬に動員された人数は500名を超えたと言われ、さらに大倉尾根の開削には2,000人以上の樵・人夫が1か月間、昼夜兼行で当たったとされる。
記者団も8社が参加し、逐一その行動も報道され、日本電報通信社から記念写真集も発行されている。なお、赤石岳山頂で一斗樽40個を担ぎ上げさせて風呂に入った話は余りにも有名である。
この2年後、氏は生涯を閉じるが、この話には後日談があり、嗣子の喜七郎氏は喜八郎氏の遺言に従い、1928年7月末から8月初めに7日間をかけて父の風葬を行うべく赤石岳登山を行っている。
また、喜七郎氏は乗馬を得意としており、競走馬も多く所有していたようであるが、その一頭の名前が赤石岳だったそうで、それを問われたとき自分が所有している山で思い入れがあると答えたそうである。

○赤石岳の一等三角点のこと
日本の地図作成は、最初に内務省と兵部省の二本立てで行われが、内務省は赤石岳の測量を1879年(明治12年)に行い、1881年には選点作業が行われたが、甲斐駒ヶ岳の測量も同時期に行われている。3,000m級の山岳で最初の測量であり、日本で一番高い場所に設置された一等三角点である。
北アルプスの一等三角点の測量は陸地測量部で行われたが、前穂高岳、白馬岳は1893年(明治26年)で
あり、地図測量の面では南アルプスが大きく先行していたことが分かる。
南アルプス主要部の5万分1地形図は1913年(大正2年)に発行され、登山に大いに寄与することとなった。

○探検時代の南アルプスの登山の記録
1871年(明治4年) 山梨県芦安村の名取直江は白峰北岳を開山した。しかし、江戸時代の寛政7年には登頂されていたことが、山頂の石の祠の鉄板から判明している。
1884年(明治17年) 中嶋謙造は学術調査の途次、赤石岳に登頂した。
1886年(明治19年) 先達原丈吉により赤石岳、奥西河内岳、悪沢岳が開かれ、1901年から1902年頃まで、多くの講中登山が行われた。
1892年(明治25年) 8月19日 英国人のウォルター・ウェストンが小渋川からのルートで外国人として初登頂。
1906年(明治39年) 日本山岳会の小島烏水が「赤石山の記」(『山岳』第1年1号)でこの山を紹介した。
1908年(明治41年) 7月 小島烏水、高頭仁兵衛らの一行が西山温泉から白峰南嶺を経て農鳥岳・間ノ岳・北岳に登頂した。
1909年(明治42年) 7月 小島烏水、高頭仁兵衛、高野鷹造らの一行が西山温泉から悪沢岳などを縦走して登頂。小渋川を経て小渋温泉へ下った。
1914年(大正3年)7月 小暮理太郎は田代からイザルガ岳から北上し、上河内岳・聖岳を経て赤石岳に登頂、悪沢岳から井戸川を小渋川に下った。
1918年(大正7年)7月 小暮理太郎、武田久吉は大樺沢から北岳に登り、間ノ岳、農鳥岳を経て白峰南嶺を南下し、蝙蝠岳に登り返した後、仙丈ケ岳まで縦走した。
陸地測量部発行の5万分1地形図の発行は1913年(大正2年)夏のことであり、それまでの地図は誤りも多く記録のない地域の登山では全く役に立たなかったと言われている。
筆者の所有する南アルプス関連の書籍は大正7年7月発行の「赤石白峰山脈縦横記」(洛陽堂発行)であるが、付録として付けられた「赤石山系臆測図」でその一端を知ることができるのではないだろうか。

日本山岳救助機構社員 AK

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