田中陽希さん「日本3百名山ひと筆書き~Great Traverse~」④

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ようき先生

島根県江津市(ごうつし)浅利にあるあさりこども園に行くのが、この旅の恒例となっています。百名山の時に立ち寄るきっかけをいただいてから今年で5年、山陰地方を歩くときにはいつもあさりこども園の子供たちとの交流を一番楽しみにしてきました。
4月6日、園児たちも登るという室神山(むろがみやま)(別名:浅利富士)に登ってから園に向かうことにしました。標高が低くとても登りやすく、何より展望がとても良いです。午前中から雨となるはずでしたが、山頂までは何とか天気も持ってくれて、江津市の町並や日本海、浅利の風力発電が見えて、登って良かったと思える山がまた一つ増えました。
そして、雨が落ちてくる前に~っ!とかけ下りましたが、あさりこども園の400メートルほど手前でいきなりのどしゃ降りとなってしまいました。
勢いよく玄関を開けると、なだれ込むように子供たちが玄関に集まってきて、先生や子供たちから温かく迎えていただきました。さっそく嬉しいことが!僕の顔を見た途端に「よーき!」と呼んでくれる子供が。着替えを終えて、少し落ち着いたあと、お昼ご飯の時間から参加しました。その際に先生よりお手製の名札を手渡され、「よーきさん、どちらを体験されます?」と聞かれ「えっ!?どういうことですか?」と聞き返すと、「一日体験なので、園児と先生どちらでも体験できますよ♪」と笑顔で先生が答えました。僕は「園児の体験という選択肢もあったんですね」と驚きました!「はーい!園児の体験だと御飯を食べさせてもらったり、お昼寝ができたり、お昼寝の時にポンポンしてもらえますよ♪」と言われ、想像すると…とてもおかしな画になるし(笑)、最初から先生の方だと思って来たので、直ぐに「後者でお願いします!」と答えました。そして、改めて先生から「はーい!今日よーきさんは先生としてみんなと一緒に過ごしてくれまーす」と紹介していただきました。そのあとは、怒濤の時間が流れ、時間が過ぎるのがあっという間でした。
お昼ご飯を一緒に食べながら、食事のお手伝いとおしゃべりをして、食べ終わると、子供たちからのだっこや担ぎ上げて回すことのリクエストの応酬、紙芝居を読んだり、お昼寝の寝かしつけをやったりしました。
お昼寝の時は子供たちから「よーきせんせいポンポンして~」のリクエストに手が2つしかないのにどうすればと本気で悩みました。先生たちは慣れたように、一人で4~5人をポンポンポンポンポンポンと叩いていきます。スゴい!!
僕も見よう見まねでやってみましたが、結果寝かしつけられたのは、二人だけ。中には寝はじめてから興奮してしまい、しきりにマリオの話を繰返し話す子もいました。
寝かしつけの後は少しだけ休憩し、今度は起きてきた子供たちの着替えを手伝いました。なるべく小さくても自分でできるようにサポートするのが先生の役目ですが、ついついやってしままいます。10人くらいの子供たちをランダムに着替えさせた後は、ちょっとした寸劇の大きなカブ役になりました。園児みんなでカブを抜くと一体感が生まれます。その後は自由時間となり、本を読み聞かせたり、3人をだっこしたり肩車をしたりと常に全力でくる子供たちにこっちも全力で応じます。さすがに読み聞かせをしているときは、読みながらうとうとしてしまう場面もありました。あさりこども園に来てから、子供たちが帰るまでの7時間はあっという間でしたが、いつもとは違う疲労感がありました。
全力でくる子供たちに僕のエネルギーは空っぽになると覚悟はしていましたが、充実感とたくさんの笑顔で、より深い絆を築くことができました。また遊びに行きまーす!次回は園児体験かな(笑)

本州一座目

4月8日、九州最後の英彦山(ひこさん)を出発してから16日目、ようやく本州最初の山となる三瓶山(さんべさん)が見えてきました。昨日の荒天により寒気が流れ込んだ影響で、雪化粧をしていますが、今日は天気が回復し青空が広がっています。途中、高田八幡宮に立ち寄り、宮司さんから三瓶山の神話や伝説を教えていただきました。登山口となる西の原で昼食をとってから、少し遅めに登り始めました。九十九折りの登山道を登っていくと、1,000メートルを越えた辺りから、眼下に野焼きされた西の原が見え、遊歩道がナスカの地上絵のように見えました。そこから先は冷たい北西の風をまともに受けて、体感温度がグッと下がりました。そして、雪に包まれた男三瓶山が見えて、先ずは一つ目のピークに立つことができました。
山頂からの展望は良く、うっすらと大山が見え、吾妻山や道後山のある中国山地の山々も見えました。さらに、宮司さんから解説いただいた国引きの神話を感じられる島根半島と薗の長浜も見ることができて、前回の旅ではほとんど山頂からの展望を楽しめていなかったと実感しました。避難小屋で少し休憩し、記録ノートに今回はしっかりと記録を残し、お鉢巡りにスタート。今回は前回とは逆回りの時計回りとしたため、次は女三瓶山となりました。4つの三瓶山の中で一番好きなのは女三瓶山からの眺め…山頂から見ると右から男三瓶山、子三瓶山、孫三瓶山と親子三世代がとなり、女三瓶山は何だか子を思う母のようにも思えます。
そこからは太平山を経由して、孫三瓶山に登り、最後の子三瓶山に登って、今回も全てのピークに立つことができました。三瓶山のお鉢は山頂が頭で家族が手を取り合って山を形作っているように思いました。満足感を感じながら、こちらも2年ぶりとなる湯元旅館に夕暮れに到着。一日の疲れを女将さんの笑顔と温泉で癒すことができました。

深夜1時32分

すっかり寝静まった深夜1時32分…
突然、下から突き上げられるような衝撃を全身に感じ、飛び起きました!一瞬何が起こったか分からず、間髪入れず直ぐに「ゴゴゴゴゴー」轟音と共に激しい横揺れが始まりましや!あまりの揺れにただ天井を見ることしかできず、「早くおさまってくれ!崩れないでくれ」と願いました。
天井の照明もチカチカと光りながら激しく揺れ、ホコリが舞いあっという間に消えてしまいました。枕元の携帯電話から「地震です!地震です!」とけたたましい警戒音が鳴り続き、記憶では揺れは20~30秒ほどでおさまりました。
咄嗟に次の揺れが来る前に外に出なくては!!と思い、携帯をに手に取りヘッドライトを探し、他の宿泊者と宿の女将さんたちの安否の確認に部屋を飛び出しました。「大丈夫ですか!大丈夫ですか!」と叫び、ヘッドライトに照らされる廊下や階段を見ると、内壁が崩れ、戸が倒れ、ホコリが舞って騒然としていました。
「大丈夫ですか!」の声に3階の部屋にいた宿泊客から「全員大丈夫です!」と返事があり、「直ぐに外に出ましょう!」というと「分かりました!」と返事がありました。
そのまま、女将さんたちがいる一階へ「大丈夫ですか!大丈夫ですか!」と叫び続けながら下りると、部屋の中から「大丈夫よー二人とも大丈夫よー」と声が聞こえたので、全員の無事が確認でき、少しだけ安心しました。
女将さんが「ドア固くて開かないの!」と言ったので、直ぐに引戸を力一杯引きました。「お二人とも無事ですか?」と聞くと「大丈夫!3階のお客さんは?」と言ったので、「3人とも大丈夫です」と無事を伝えました。そして、「また地震が来るかもしれないので外に出ましょう!」と言った直後、二度目の揺れが来た!慌てて女将さんとご主人と外に出ました。
ガスの元栓や石油ストーブの確認を終えて、暖かい格好になった女将さんたちと、再び外で合流すると、三度目の大きな揺れが来ました。女将さんはなかなか出てこないお客さんが気がかりでならない様子です。呆然と立ち尽くしていると、自分の携帯電話を持つ手が震えていました。
そして、地震発生から10分以上が過ぎた頃、全ての荷物をまとめて帰り身支度を終えたおじさんたち3人が外に出てきました。2年前の熊本地震を経験している方がいて、一緒にいた方も落ち着いて対処できたそうです。
その後、近所に住む息子さんや娘さんたちが駆けつけてきて、とりあえず余震が止まない間、谷間にある旅館の近くにいては危険だからと、僕以外の宿泊客と女将さんたちは、息子さんの車で自宅へ避難された。避難の際に娘さんから「よーきさんも車に乗ってください。」と言われましたが、一瞬考えて、「僕は車に乗れないので、歩いて避難します。」というと「えっ!?緊急時でもダメなんですか!?」と驚きと少し笑いながら言いました。「いやーどこも怪我していませんし、歩いて避難できないわけではないので」と自分でもこういう時はどうしたらいいのかはっきりと分からないまま言いました。
すると、娘さんが機転をきかせて「すぐ近くに消防署の出張所があるのでそこまで一緒に歩いていきましょう!」と言ってくれました。
正直、自分自身どうしていいか分からなかったので、その言葉にすごく救われました。
出張所に行くと、すでに消防士の方々が事態の収集に努めていたが、夜中の地震のために発生から1時間が経過していたが、分かる情報はテレビの緊急速報だけでした。それから避難場所が開いたという情報が入り、雨のなか、今度は息子さんと一緒に三瓶温泉がある志学の集落を抜けて、中学校の体育館へ向かいました。
体育館には、主に一人暮らしのお年寄りが身を寄せ合うように、車座になっていました。体育館は続く余震の度に、大きな音をたてながら揺れて、避難している住民の方々は、震えるように声を出していました。
中学校の体育館には非常時に必要な物資などが保管されていて、地元の男性たちはマットや毛布、テントや寝袋を引っ張り出して、受け入れ体制を整えていました。ある程度整ったところで、毛布と寝袋にくるまり横になりましたが、今後のことを考えたり、余震が続いたりしてなかなか眠れませんでした。
避難所にいた住民の方から、宿泊していた湯元旅館の女将さんたちが旅館に戻ったと教えてもらったので、雨の中一人向かいました。戻ってきた僕を見て、「ごめんなさいねーこんなときに泊まってもらうことになっちゃって」と何度も謝られてしまいました。
「謝らないでください。全然そんなことないですから、みんな無事で良かったです。それだけで十分です。地震は誰の責任でもないですから」と精一杯の気持ちを伝えました。
夜明けまで頻発していた余震は発生から8時間以上がすぎて、おさまりつつありました。埃まみれになった荷物をまとめ玄関へ戻ると、旅館そばでカフェを始めた娘さんが、変わり果てた旅館や自分のカフェを見て言いました。「これまで、東日本や熊本地震とかをテレビとかでみてきて、そのひどさや辛さ、大変さを感じてきたけど、今回自分たちが被災して初めて地震で被災した人たちの気持ちが分かりました。やっぱり、自分が同じ立場にならないと分からないんだって。」その言葉が心に刺さります。
自分は残って女将さんたちの手助けをした方がいいのか…それとも、またいつも通り歩きだしていいのか、と悩んでいたとき、息子さんからは、「こんなことになっちゃったけど、お袋は本当に陽希さんが来てくれることを楽しみにしていたから、本当に来てくれてありがとうございました。」と涙を流しながら振り絞るように言ってくれました。娘さんたちは「頑張って立て直しますので、陽希さんも頑張って下さい!」と言ってくれ、最後に女将さんは「あなたが旅を続けてくれることが私たちの励みになるから、ゴールまで頑張って」と笑顔で言ってくれました。
とても、僕のことなど気にしている余裕はないはずなのに、湯元旅館の皆さんの心に救われます。自分にできることをしよう!そう思い、震源地となった大田市から離れ、最後に笑顔で手を振る女将さんたちに、無事ゴールしたら必ずまた会いに来ますと約束をしました。

吾妻山

古くは吾妻山を含む比婆山系では、砂鉄が採取されて、麓にはいくつものたたら場(製鉄所)があったそうです。そして、製鉄する際に必要な燃料として山の木がたくさん必要だったために、吾妻山は丸裸になってしまったそうです。その後、砂鉄の採取がされなくなった跡地は、牛の放牧地となり、放牧されていた当時は今よりも美しい草原が広がっていたといいます。ロッジまで登ってくるときには、昔使われていた街道を辿ってきたのだが、当時の名残も随所に見ることができました。さらに、古事記に記されている大昔日本が誕生する前の話も、ガイドさんより教えていただきました。話によると、比婆山には国造りの神話に出てくるイザナミノミコトの御陵(墓)があり、妻との別れを悲しんだイザナキノミコトが、吾妻山の山頂より「ああ吾が妻よ」と叫んだことから、吾妻山となったそうです。比婆山が御陵ということで、昔は神域とされ、山に山頂に近づくことはおろか、山にはいることもできなかったのです。そのため、製鉄所があった頃も比婆山の木は切られることはなく、今もブナの原生林が残ったままとなっています。
実際に比婆山を見たとき、吾妻山や烏帽子山は山頂に木がないが、比婆山にはしっかりとあり、原生林も中腹まで残っているように見えました。中国地方に入ってから神話が登場することが多く、三瓶山から神話が山と深く関わってきたことを吾妻山でも知ることができて、イザナミノミコトは何故吾妻山から叫んだのかを想像しながら山頂を目指しました。
山頂までは本当にあっという間に到着、出雲の国が一望できました。
そして、イザナミノミコトが眠る比婆山を初めて見て思ったのは、すごくふくよかな形をしていて、女性らしい山だと感じました。
緩やかな谷を挟み、比婆山全体を一目で見ることができて、なおかつ山頂とほぼ同じ高さの吾妻山が妻への思いを届けるに、一番の場所だったのではないかと思います。
春の日差しを受けてパチパチと春の知らせをする草たちが広がる大膳原(だいぜんばら)を駆け抜けて、不思議な石「条溝石(じょうこうせき)」があるという烏帽子山を経由して、イザナミノミコトが眠る比婆山へと向かいました。大きなブナが広がり、ウグイスが鳴くなかを登って行くと、御陵がある山頂に到着しました。今もイザナミノミコトが眠るとされる石の周辺は神域とされ、立ち入ることはできないのです。イザナミノミコトが安らかに眠る御陵に手を合わせ、六の原製鉄所があったスキー場に向けて下山をしました。九州では多くの霊山に登ってきましたが、神話の山にはそれぞれ全く違う世界があると知った1日でした。(4月12日)

道後山

ずいぶん前に、広島の山は?と聞いた時に、道後山(どうごやま)と教えてもらったことがありました。それ以来道後山の名前は頭に残り、今日初めて登ります。麓の三坂の集落に住む方に、地元の人にとって道後山はどんな存在ですかと聞くと、「いつも見守ってくれていて優しく包み込んでくれる母のような存在」と教えてくれました。ここにも温かな山が一つあったと、印象に残る言葉でした。4月13日、気持ちのいい日差しを浴びながら、スキー場脇の道を登って行きました。道後山は手前の岩樋山(いわひやま)の陰となり見えませんが、三坂の方からいただいた地図を見ると、要所要所に見所があるようです。登山道にカナクソ(製鉄するさいにでる鉄屑)を使っているところや鳥取県と広島県の県境には石垣が万里の長城のようにどこまでも続いているところなどがあり、、地図と照らし合わせながら最初の山頂、岩樋山に登頂しました。岩樋山からの展望は最高でした。広大な草原の先に美しい道後山が見えます。草原の中の一本の登山道が道後山へと続く、僕が好きな景色が広がっています。テンション上げ気味で、岩樋山からかけ下りて、道後山へと向かいました。
広い山頂の道後山からは、昨日の吾妻山よりも、少しだけ近づいた大山がくっきりと見え、振り返れば中国山地の山々が見渡せました。西に太陽が傾き、風がひんやりしてから、麓へと下山。道後山も人の歴史が作り出した美しさが残る山だと感じ、四国へと一歩を踏み出しました。

しまなみ海道

4月19日、今日から2泊3日で四国本島へとつながるしまなみ海道を歩きます。最短距離で歩けば70キロほどなので、2日で渡れてしまうが、しまなみ海道の7つの橋が架かる6つの島を、今までとは違うルートでもう少し歩いてみたいなと思い、2泊することにしました。1日目は向島を抜けて、はっさくの山地でもある因島の西側を歩き、宿泊先となる生口島を目指します。島の南側は瀬戸内海らしい穏やかな海と島が点在する景色が広がっています。因島大橋を渡り因島の西側を歩くと、瀬戸内の静かな島の生活を垣間見ることができました。
4月20日、宿のある生口島はレモンが特産で、今年は寒波があったからいつもよりも収穫が遅いので、もしかしたらレモン谷にまだ残っているかもしれないと聞き、多々羅大橋の袂へ向かいました。多々羅大橋は多々羅鳴き龍という不思議な響きを聞くことができ、橋の上で広島県と愛媛県の県境を越えることになり、楽しめるポイントが多い橋です。橋の袂まで来るとまだ収穫されていないレモン畑がありました。収穫作業中のご主人にレモン谷に来た行きさつや自分のことを説明すると、ご主人から生口島のレモンについての話を聞くことができました。大三島を観光するため、キャンプ場にテントを張り荷物を入れてから散策に出掛けました。伊予の国の一宮大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に閉門10分前に到着。主祭神が大山祇神で、全国の山の神の親神であることを知り、自分の旅に深く関わる神様だと強い縁を感じました。
4月21日、日が昇り暑くなりそうな中、大三島から5つ目の島の伯方島に向かいます。しまなみ海道の難所「鼻栗瀬戸(はなぐりせと)」に架かる大三島橋を渡ります。伯方島に上陸して真っ先に向かったのは、鉾山(宝股山・ほこさん)別名・伯方富士の山頂へ。しまなみ海道の島々の山の中でも、随一の展望があるそうです。山頂につくと自分が立つ伯方島を中心に大小の島々が眼下に見え、複雑に流れる海が見てとれました。初めて見る景色に感動。これぞ瀬戸内海!という感じです。6つ目の伯方大島橋をわたり、島の西側を歩きます。島四国八十八ヵ所霊場と書かれた幟が立っていて、小道の入り口に遍路道と書かれた石碑がありました。詳しく聞いてみたくなり立ち寄ると、穏やかなご夫妻が丁寧に島四国八十八ヵ所霊場について解説をしてくださいました。一年で一回弘法大師さんの命日となる4月21日を初日として、3日間だけ霊場が開かれるそう。日本各地の霊山で弘法大師さんの姿を見てきましたが、まさかここ大島でその存在に触れることになるとは、すごく縁を感じることになりました。また、この期間だけお披露目されるご本尊にもご対面させていただきました。結局、最後の来島海峡大橋(くるしまかいきょうおおはし)は夕暮れの中走り続け、静けさに包まれた今治市内へと入ることになりました。

いざ!四国の山へ

四国は全9座、そのうちの5座を今日から5日間の縦走で踏破することになります。初日は赤石山系の麓の町、新居浜市よりスタートし、標高差1500メートル以上を一気にかけ上がります。すでに標高の高いところでも、アケボノツツジが咲いているそうで、初めての四国を代表する縦走路で、四国ならではの春を感じられることに気持ちが高まりました。初めて見るアケボノツツジは、大きな花弁を太陽に向け、鮮やかな桃色をしていました。そして東赤石山といえば、山頂付近に自生する五葉松です。東赤石の山頂が迫ると、岩質は一変し、その名の通り赤石岩の群れが山を形成していました。山頂を去るのが惜しくなり、夕暮れまで山頂で静かな時間を過ごしました。(4月26日)

 笹ヶ峰

4月27日、赤石山荘からスタート。赤石山荘から西赤石山~銅山越~ツナクリ山~シシ舞ノ鼻~笹ヶ峰~丸山荘までのコースタイム8時間半の行程です。目指す先の27座目となる笹ヶ峰は、変化する雲に見え隠れしていました。西赤石山からの眺望も良く、あらかじめ地図で読み取っていた以上に、実際に見る笹ヶ峰までの稜線は激しくアップダウンを繰り返しているように見えました。シシ舞ノ鼻へ向かう途中、下山してくる登山者とすれ違い「アケボノツツジが満開だったよ~ピンク色がスゴかったよ~」と興奮気味に話してくれました。シシ舞ノ鼻を越えると、それまで一本もなかったアケボノツツジが、南向きの斜面一面で満開を迎えていました。今度は一面笹に覆われた斜面を迎え、2年前は一面を雪が覆い、何度も足を取られながら笹ヶ峰を目指したことを思い出しました。そして、ちち山の別れからは石鎚山系となり、ようやく笹ヶ峰の全容を見渡せるようになりました。笹ヶ峰の名の通り、女性的な緩やかな曲線を笹がどこまでも覆いつくし、日本中探してもここだけの世界だと思わせてくれます。2年ぶりの笹ヶ峰からは明日以降歩く石鎚山へ続く稜線が見え、だいぶ先々の山まではっきりと見えるようになりました。

伊代富士

4月28日、昨晩の放射冷却でできた霜柱を踏みしめながら、笹ヶ峰へ登り返すと、朝日を受ける笹と灌木で覆われた稜線が伊予富士へと続いています。伊予富士への快適な縦走路を気持ち良く歩き進めると、それまで富士山のように見えるのか分からなかった姿が、はっきりと見えるようになってきました。伊予富士を含む大きな山塊はほとんどが灌木におおわれているが、伊予富士だけは笹に覆われ、灌木とのコントラストで、笹が富士山のような輪郭となっています。さらに、山頂への最後の登りはまさに富士山さながらの急登です。山頂に立つと伊予富士へと登ってくるたくさんの登山者の姿が見えました。瓶ヶ森へ向かう途中、一座一座が大きく、石鎚山系らしい、北側が切り立つ岩壁も所々に見ることができました。瓶ヶ森の手前の西黒森にアップアップになりながら何とか越え、最後の登りへと休まず進みました。一度腰を落としたらしばらくは休みたくなるだろうと思い、山頂からの景色を味わいながらランチにしようと決めて我慢しました。我慢した甲斐があり、山頂からは瀬戸内海やしまなみ海道、遠くは中国地方、眼下には石鎚山系からの恵みと共に暮らす町が一望できました。翌日は、小さいけれど快適な愛媛大学山岳会堂ヶ森避難小屋からスタートし、堂ヶ森を経由して梅ヶ市の登山口に下山しました。

 

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